世は万華鏡 (54)

Date:2017年11月20日13時01分 | Category:世は万華鏡 | Writer:ぐらんざ編集部


 数年前のこと。サッカーJ2、ギラヴァンツ北九州のサポーターが横断幕や応援コールに「ぶちくらせ」という言葉を使っていた。ご承知の通り、「ぶちくらせ」は「殴り倒せ」「叩きのめせ」といった北九州地方の方言である。

 スポーツの応援では選手を奮い立たせようと、どうしても言葉に力が入り、ときに過激さが混じる。相手選手の出生地や肌の色に関するものなら人権上絶対に許されないが、そうでなければ多少の激しい言葉遣いも応援の醍醐味という点から容認されるだろう。

 しかし、「ぶちくらせ」に対し、クラブ側はこれが「暴力性を帯びている」「品位に欠ける」との理由で使用を禁じた。私は幼い頃、北九州市で暮らしたが、「ぶちくらせ」は口にしたことがないし、暴力性云々も分からない。

 これが「殴り殺せ」なら万人に恐怖を与えるから脅迫罪だろうが、ギラヴァンツのサポーターたちもそういう意味で「ぶちくらせ」を使ったわけではあるまい。「ファイト!」の北九州版、つまりこの土地ならではの表現形態だと私は理解したので、使用禁止措置に少し首を傾げたものだった。

 では「安倍、お前は人間じゃない。たたき斬ってやる」はどうか。もし、これが相手選手に投げつけられたらゲームは即中止、発したサポーターは逮捕されるかもしれない。ところが、この罵声の主は何の御咎めもないどころか、いまだにテレビに出演して政治コメントを繰り返している。

 このところ、政治家や政治運動に関わる人々の言葉が過激化し、品性を失っているように思える。「表現の自由」「言論の自由」と言う。しかし、それは無制限な自由ではない。

 法的な制約というのではなく、表現・言論の品格を維持するために自分自身が律すべき内なる制約のことである。それだけに言葉に相当な神経を払わねば、不用意なひと言でその人の全存在が問われかねない。

 表現の自由は普遍的権利である。しかし、それが政治的に敵対する側への単なる罵詈雑言になれば表現技術は劣化し、強い言葉だけの決めつけ競争となって言論空間はやがて死に至る。
 思想的にアンチに立つ人々の心に染み入るような言論力、表現技術こそ政治家および政治運動に携わる人の命でなければならない。

 強い言葉は実は弱い言葉なのだ。ハリネズミのように武装された強い言葉だけの応酬は民主主義と自由な批評精神を衰弱させる。「ぶちくらせ」は、サッカーだけで十分である。

(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)



馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト