世は万華鏡(48)

Date:2017年05月19日13時01分 | Category:世は万華鏡 | Writer:ぐらんざ編集部

私の『沈黙』行〜浦上編〜

 新米記者として赴任した長崎市。中心部にあった西日本新聞長崎総局には多くの人が絶え間なく出入りした。その中に温厚、優しい笑顔の中年男性がいた。

 私が赴任する以前に総局でカメラマンをしていた深堀柱さん、「バテちゃん」の愛称で呼ばれていた。由来を先輩に訊ねると「“伴天連のバテちゃん”たい」。

 後年、浦上天主堂を取材したとき、カトリック長崎大司教区広報委員の「バテちゃん」に沢山のことを教わった。そのやりとりを通して、浦上にも筆舌に尽くせぬ「沈黙」が横たわっていることを知った。

 秋の大祭・長崎くんちで知られる「お諏訪さん」(諏訪神社)。その氏子を中心とする旧市街の人々はカトリックを「クロ」、信徒たちは旧市街の異教徒を「ゼンチョ」と呼び合った。ともに侮蔑が込められている。

 原爆が聖地・浦上の上空で炸裂したことで、一部の市民から「お諏訪さんにお詣りせんやったけん、天罰が下ったとさ」との心ない風説が広がっていく。

「原爆は長崎に落ちたのではなく浦上に落ちた」。それは長いキリシタン迫害の歴史の中で醸成された信仰差別が吐かせた言葉だった。

 自ら被爆しながら、救護活動を続けた永井隆。代表作『長崎の鐘』に次のようなシーンがある。
 隣人だった山田市太郎さんが復員し、自宅跡に駆けつけると、妻と五人の子供の黒い骨が散らばっていたという。

「誰からも言われるとです。原子爆弾は天罰。殺された者は悪者だった、と。それじゃ私の家内と子供たちは悪者でしたか!」
 永井は答える。「原子爆弾が浦上に落ちたのは御摂理です。亡くなった人たちは汚れなき子羊だったのです」

 旧約時代のユダヤの民がヤギやヒツジを祭壇で丸焼きにして神に赦しを請うた燔祭と、原爆死没者を重ね合わせた永井。正直、違和感がぬぐえない。
 一方で、灰燼に帰した浦上の原子野に一条の光を差し込ませたのもまた事実である。彼の言葉に信徒の誰もが嗚咽、号泣した。

『沈黙』(遠藤周作)は、「神は存在するのか」と問う。存在するならこの苦難、悲嘆から解き放して欲しいと訴える。しかし、救いの声は聞こえてこない。頑なに「沈黙」を守ったままだ。

 人として生きよ、との神の啓示を遠藤は「沈黙」という形で逆説的に描いた。それは、饒舌な現代だからこそ「沈黙」の持つ深い意味と重い価値を宗教の枠を超えて我々に教えてくれるのである。

(ジャーナリスト。元西日本新聞記者)



馬場周一郎=文
幸尾螢水=イラスト